魔法

映画が見れない。正しく言えばDVDが見れない。
昔は良く見ていた。カーナビで良く見ていた。移動中に見ていた。
しかし、今、ロングドライブをすることが減ってしまった。
すると、DVDなんて全然見れないんだ。
出張にノーパソを持ってきて、今更新しているんだから、このトレイにDVDを入れれば見れる。
そんなに面白くなさそうではない。レザボアドックスだ。面白そうではある。
返さなくても良いから見れないのか。
誰かがレンタルビデオは返さなくてはならないから見るのだと書いていた。それは真理ではあると想う。
代わりにナニをしてるかと言うと、だらだらネットを見てたり、ディアボロの大冒険をしてたりしている。


テレビをじっと「見ている」よりテレビゲームを「する」方がアクションとレスポンスが在る分、
高尚な気がするのは気のせいだろうか。


読書人口が減少する一方でアマチュアの書き手が増え続けているという。
正しいコトなのだろうか。間違っているコトではないとは想うが。
美輪さんが泉で言った。「見る側の人が居なければ私たちは存在出来ない」と。
その通りだ。


良く解らないのだが、単純にセカンドライフを賛美するような事はしたくない。
表現方法が原始的だろうが、未来的であろうが、すばらしいものはすばらしい。
ワンセグをいくら導入してくれようが流れるものが面白くなければ意味はない。


でも映画なんていくら素晴らしくても、
ただ僕らは座って感動したり、感銘したり、人生を変えられてしまうくらいじゃないですか。
要は座らされるだけって事じゃないですか。


じゃあゲームは正しいのかって事だけど、ゲームで感動した事なんて10何年やってきてもそうだな、
10回に満たないし、人生を変えられた記憶も無い。
それは確かに弱点だ。モノとしての完成度ってのはそれに関連している人間が少なければ少ないほうが
高くなるのは普遍だ。まして、完成するのに作り手と全くの他人であるやる側の人間が必要とされれば、
「完成」なんてするはずもない。まぁそれで良い点もあるとは想うが。


今、やりたい事はね。「マリオブラザーズ」。
マリオブラザーズ」で2P「対戦」をした。所謂「殺し合い」だ。
あの時の僕らは全く正しい想像力の使い方をしていたと想う。


その点で朝目新聞は素晴らしいと想う。パロがエロだけである必要も必然も無かった訳だし。
同人がエロだけである必要はホントは無かったんだって。気付くことが出来た。


世界も、今も、モノも、全ても、「まだ」出来るんだって。違うように出来るんだって。
無理に楽しくないものを捏ねくり回したって仕方ないけど、
マリオブラザーズでスト2をしていた僕らには、同じようなことが「まだ」出来るはずだ。
そんな魔法を使えるはずだ。